先日、保護者の方からご丁寧にお電話をいただいた。「塾の授業の満足度が非常に高い」ということで本人が大変喜んでいるとの内容だった。責任を持って大学受験まで末永くお付き合いをさせていただきたいと思う。
前職時代、「水野さんの授業は型破りすぎて真似ができない」とよく言われた。自分でもそう思う。型破りな授業を実力不相応の講師が行うと、クレームの嵐だ。いわば諸刃の剣にもなりえる。
写真は、若い頃作成した「板書案」である。黒板のどこに何を書くか、どこで生徒に当てて、どこで言葉をかけてetc.全てがぎっしり詰まっていて、いわば台本になっている。全学年、全教科、全単元を合わせると、おそらく700~800枚はあると思う。命の次に大切と言っても過言ではない。今でも、授業中に思いついた良い言い回しなどは必ずこの「板書案」に追加で記している。生徒に高いものを要求する講師が毎年、同じ授業を焼き増ししてはいけない。
なぜここまでするのか。それは、自分が「センスが無い、頭の回転が遅い」ということを自覚しているからだ。そういう人間は人の何倍も努力しなければならない。しかし、それを続けると「センスらしきもの」が会得できる。それに加えて今までの自分の人生経験から得た体験談などを通して、日々、生徒に言霊を飛ばしている。結果として、それが前職での突出した生徒支持率につながったにすぎない。
当塾では、10人から60点を付けてもらうよりも5人の人から120点をつけてもらうことを目指す。だからこそ、自分で校舎を開いた。
確かに、一般的に行われているような「万人受けするごく普通の授業」もやろうと思えばできる。何もないところからオリジナルは生まれない。「型」を持っているから「型破りなこと」ができるのである。
これは、生徒においてもあてはまる。「自分に合った勉強法」というものをはき違えてはいけない。成績も伴わないのにそんなものは存在しない。こちらが提示した「型」を完璧に寸分の違いもなく、ただひらすらマシーンのようにこなせるようになったその先に「自己流」というものが生み出せるのだ。少なくとも偏差値が70に満たないうちはそれは不可能だ。それが出来ているからこそ、上記の生徒は結果を出すことが出来ているのだ。
「無知の知」というソクラテスの言葉がある。
本当に有能な人間は自分が無能であることを自覚している。決して見栄を張ったり、知ったかぶりをしたりしない。