「有名人が何人も出ている」という理由で東京の難関私大を第一志望にする生徒がいる。
「見学に行ったらすごくオシャレな感じがした」という理由で大学を決める生徒がいる。
「制服がかわいい」という理由で高校を選ぶ生徒がいる。
「マニュアル通りの対応」をするならば、きっとこう言うのが望ましいのだろう。
「そんな不純な動機で進路を選ぶんじゃない、もっと将来の職業観とか、4年先を見据えて…」申し訳ありませんが、私にはそんな対応はできません。
よく人は「こうあるべきだ」と言いたがる。我々の仕事で言うと「塾講師は子供に夢を与える職業だ」とか「尊敬されるように、憧れの大人であれ」とかいう感じだ。ただ、そんな定義はどこにも存在しない。「高校中退、ニート歴3回なんて、最低の人間だからな。頼むからこんな大人になるなよ、絶対に真似しないでくれ」と常に生徒に言っている。
私は、前述の生徒に「それは素晴らしい!!全力で頑張れよ!!」と声をかけた。不純な動機であってもその生徒が全力で取り組む強力なモチベーションになれば、それは立派なことだからだ。この「不純な動機」を大切にしている。打ちこめる物は大学に入ってからでも見つかる。そこを目指す理由なんか何だっていい。
逆に、たいそう立派な目標や夢を掲げていてもまったく行動に反映されていない人もいる。理想だけが高すぎて、過程をすっとばしているからだ。現実が見えていない。
勿論、目標をしっかりと見据え、それに向けて努力している者もいるので、不純な動機を全て肯定しているわけではないので悪しからず…
自分自身、崇高な理念を持ってこの職を選んだわけではない。この業界でも、そういう講師は、理想とのギャップにショックを受け、早々にドロップアウトしていく。
そもそも大学自体、「遊びたい」という「不純な動機」で選んだ。法学部を選んだのは、「頭が良さげに聞こえるし、人に言ったら自慢できそう」これだけだ。周りの就職が決まり始めた大学4回生の時、「普段は午後出勤だから昼まで寝ていられる!ラッキー!!」という「不純な動機」でこの職を選んだ。新卒の時は最初に入社した大手塾1社しか受けていない。運よく内定をいただいたので、働くことにした。ただ、一瞬にしてそのイメージは粉砕された。だからこそ「この仕事は面白い、奥深い、極めてやろう」と思うことが出来たのかも知れない。
この校舎を開校した時も、「他に何も出来る事が無い上、33歳無職はマズい(+_+)結婚もしたいし、生活の糧を得なければ…」という動機で始めた。気付いたら、周りに協力して下さる元教え子の保護者の方がいたり、教え子に励まされたり…せっかくやり始めた以上、乗りかかった船だ。最後の最後までお客様を大切にしたい、だから高等部までやり始めた。気付いたらもうすぐ4年。勿論今は、本気で「岐阜の教育を変える」というテーマを掲げて、日々、試行錯誤している。
要は、今やっている事を必死にやり続けたら、自然と次の目標なんて見えてくる。「目標が無い」という人は、目の前に与えられたことを全力でやり遂げることこそが大切だ。確かに「熱い理念」は当塾には無いのかも知れない。ただ言えるのは、当塾の講師は、並外れて努力している。今日の授業を失敗したら、明日は生徒が全員来なくなるかもしれない、くらいの気概は持っている。そして、適正価格を度外視したサーヴィスを提供させていただいている。
「塾講師はこうあるべきだ」という既成概念は、求められても応えることはできない。むしろ、「異端であることが最大の褒め言葉」だと思って「型」を破り続けます。